「温泉」の誕生

 現在のように温泉を「おんせん」と読むようになったのは一六世紀から江戸時代前期の一七世紀にかけてと比較的新しい。正確には「をんせん」である。「を」はワ行の音で「UО」に近い音だ。それ以前は温泉を「ゆ」と読んでいた。

温泉(化学)分析の相、宇田川榕菴

 幕末の医師でわが国に初めて西欧の化学を紹介した宇田川榕菴(うだがわようあん)は、温泉分析を行なった最初の化学者でもあった。榕菴は江戸時代に出版された唯一の化学書『舎蜜開宗(せいみかいそう)』の中で、当時の西欧の温泉理論、泉質による分類などを紹介しながら、榕菴の温泉化学をまとめている。
 榕菴は化学者としての立場から、初めて温泉に代わって「鉱泉」という言葉を使った。水は飲用できる「常水」と鉱物質が含まれた「鉱水」に分けられ、鉱泉は鉱水の湧く井泉を指す。そして榕菴は鉱泉を温度によって五つに分類した。熱泉、温泉、暖泉、冷泉、寒泉である。

「舎蜜開宗」天保8(1837)年/著者蔵


「日本鉱泉誌」明治19年/著者蔵


〔表1〕「日本鉱泉誌」の分類

 相当の温泉好きでも、鉱泉を「沸かし湯」と思い込んでいる人も少なくないだろう。だが、『舎蜜開宗』を読むと、西欧では温泉はむしろ鉱泉の下位にあったことがわかる。
 明治一九(一八八六)年に日本政府(内務省衛生局)が編纂した、わが国で最初の公的かつ全国規模の温泉調査の報告書「日本鉱泉誌」(全三巻)に記載されている温泉名がことごとく「○○鉱泉」と表記されたのは、宇田川榕菴の化学的な根拠を踏襲したからに他ならない。同書上巻の冒頭の通論で、鉱泉の定義が示されている。
 「鉱泉トハ概ネ常水ニ比スレハ多量ノ固形分若クハ瓦斯分ヲ含有シ或ハ高温ヲ保チテ湧出シ又ハ臭味色ノ三性ヲ異ニシ人体ノ疾病ヲ治癒シ或ハ之ヲシテ軽快ナラシムルノ効能アル者ヲ云フ」
 鉱泉(mineral spring)は、私たちがふだん飲む常水と比べ、鉱物質が多く含まれているため、含有成分が濃いか温度が高い。しかも、治癒効果があるものを指すというのだ。『日本鉱泉誌』によれば、〔表1〕のように鉱泉は温泉と冷泉に分類される。成分は濃いが温度の低い鉱泉を冷泉と称した。この冷泉がかつて世間でいわれていたいわゆる「沸かし湯」の正体なのである。
 温泉はさらに微温泉、温泉、熱泉に分けられた。

温泉の定義

 現行の「温泉法」は昭和二三(一九四八)年七月に制定された。日本国憲法が施行された翌年に制定された温泉法の目的は以下のように謳われている。「第一条 この法律は、温泉を保護しその利用の適正を図り、公共の福祉の増進に寄与することをもって目的とする。」
 宇田川榕菴の『舎蜜開宗』以来、明治、大正期を経て、昭和の前期まで“鉱泉”という言葉が使われてきたが、こうして戦後の温泉法により榕菴以前の「温泉」がふたたび用いられるようになった。
 ところがそれは言葉だけの問題ではなかった。温泉法によって榕菴以前の「温泉」の意味も、本来のそれと似て非なるものとなってしまう。戦後に制定された温泉法でいう「温泉」の定義は、第二条に掲げられている。 「第二条 この法律で「温泉」とは地中からゆう出する温水、鉱水及び水蒸気その他ガス(炭化水素を主成分とする天然ガスを除く。)で、別表に掲げる温度又は物質を有するものをいう」

 この温泉法で最も注目すべき点は、〔別表〕にあるように、摂氏二五度以上あれば含有成分の如何(いかん)にかかわらず温泉と認められたことだ。つまりもしこれといった鉱物質が含まれていなくてもいいことだ。
 近年の探査・掘削技術の飛躍的な進歩により、この「二五度以上」の条件にぎりぎりでクリアーした温泉誕生の背景には、この温泉法の存在があった。かぎりなく“水道水化”した温泉の正体といっていいだろうか。
 公共温泉施設を中心に、濾過・循環、塩素殺菌風呂が日本列島の至る所に造られた遠因が温泉法にあったことがわかる。「温泉って何?」と問われたら、大半の人は「成分が含まれている」とか「温度が高い」と答える。だが、何ら成分が含まれていなくても僅か二五度で温泉と認定される。二五度では入浴できないので加温する。かけ流しでは加温のためのボイラー代がかさむので、回し湯の循環風呂になる。何日も湯を使い回していては危険な菌だらけの湯になる。ということで塩素剤で殺菌された“塩素泉”が誕生する。
 すでに見てきたように、本来、温泉は何らかの濃厚な鉱物質を含む温かい水を指していた。しかし現行の温泉法で認定されている温泉のなかには、本来そうであるべき温泉の定義からはみ出たものもあるということだ。
 すでに述べたように東京で温泉掘削すると、一〇〇メートルで二・三度地温が上昇するといわれている。東京の年平均気温が一六・七度だから、うまく水脈に当たれば、五〇〇メートル以内で世にいう「天然温泉」が得られることになる。
 温泉法で認定する二つ目は、別表に記載されている一八種類の物質のいずれかを規定量以上含有するか、ガス性のものを除く溶存物質の総量が一〇〇〇ミリグラム以上のどちらかを満たせばいい。この条件に合致していればたとえ温度が一〇度であっても温泉と称することができる。これこそが本来の温泉であったはずだ。

 一方、環境省の『鉱泉分析指針』(二〇〇二年改訂)では、〔表2〕のように泉温によって温泉(四二度以上「高温泉」、三四度~四二度未満「温泉」、二五度以上~三四度未満「低温泉」)と冷鉱泉(二五度未満)に分類されている。濃厚な鉱物質を含むものが鉱泉であったはずが、ここでは鉱泉に「冷」を付けることによって、「鉱泉=沸かし湯」とされてしまっている。諸外国では一般に私たちのいう「温泉」は鉱泉と表現されている。mineral spring, mineralquelle, sources d'eaux min'erals・・・・。元横綱朝青龍が温泉保養地、ホジルトで静養したモンゴル(アジアで唯一、温泉保険制度がある)では、アルシャーン(鉱泉)、熱い温泉のことをハローン・アルシャーン(温かい鉱泉)という。
 「鉱泉」に代わって「温泉」ということばを使用することになった理由を、温泉の方が語感として温かく、かつ、わが国には高温泉が多いからという説明がなされている。(環境庁自然保護局施設整備課監修『逐条解説温泉法』、昭和六一年)。およそ科学的とはいえないこの定義の背景には、国際的に認知されている鉱泉(mineral spring)という枠組みを外し、成分にかかわらずレジャー目的の温泉、いわば温泉気分を公的に認めようという思惑があったものと思われる。

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